『戦争体験から平和を考える』開催レポート

戦争体験から平和を考える
-記憶をつなぐ、未来をひらく-

8月20日(水)、小竹地域集会所にて、
二人の語り部をお迎えしました。

綿平敬三(わたひらけいぞう)さん

被爆者練馬の会会長、東友会役員。

1歳9カ月の時に広島市で被爆。
平和のための活動を、
精力的に続けていらっしゃいます。

お父さんは、爆心地近くにお店があり、原爆で亡くなりました。
家族の写真も残らずでした。

戦後、お母さんは生活のために働きに出ねばならず、綿平さんとは離れ離れに。
「母親と一緒に暮らす」という今では当たり前のことも、原爆によって、できなくなりました。

綿平さんとお母さんをつなぐ「唯一」のものは、
晩年のお母さんから届いた手紙。
その時、綿平さんは、60歳に。

手紙の末尾には
「お小遣いあげる」とあり……
お母さんにとってはいつまでも
小さな子どものままで止まっているのでしょう。

原爆が、家族の生活を、人生を、大きく変えてしまうことが、よくわかりました。

また、原爆認定の裁判など、その後の動向なども
ご紹介いただきました。

陳力航(ちん りきこう)さん

シベリア抑留者遺族。

台湾から日本へ留学。
練馬区小竹町にある力行会館から、
東京大学大学院などへ通ってらっしゃいました。

その後、台湾史についての
仕事をされています。

1920年代生まれのお祖父さんは、幼い時から日本語の教育を受け、話すことができました。
戦時中、日本軍に入隊。満州へ。
その後、シベリア抑留されました。
そこでチフスにもかかったそうです。

昭和23年、ようやく日本に戻ってからも、
故郷の台湾に戻るまで、5ヶ月かかりました。
日本人なら、すぐに帰れたのに、です。
日本に戻ると、日本国籍がなくなっていて、
学校に通うこともできなくなっていました。

お祖父さんは、当時は日本語、ドイツ語、ロシア語しか話せず、
中国語は話せませんでしたが、
台湾に戻りました。

さらに、上海に戻ると、
危険思想かもしれないと、
刑務所に入れられてしまいます。
その後も監視がついたそうです。

また、就職でも断られたりと、
苦労があったとのこと。

関心のある方は、陳さんの著書
『零下六十八度―戦後台湾人のシベリア抑留』
をご覧ください。

また、台湾の現状についても伺いました。「昔の平家と源氏のような感じ」といった例えもわかりやすく、貴重なお話でした。


綿平さん、陳さん、ありがとうございました。

ご参加の方からもたくさん感想をいただき、開いてよかったと思いました。これからも一緒に、戦争を二度と起こさないため、平和について、考え、行動していけたらありがたいです。

ご参加の皆様、ありがとうございました。