7/22「補助172号線を考える会」レポート
補助172号線の問題って?
東は豊島区池袋から出発し、長崎~旭丘~江古田北口の商店街を飲み込み、桜台の住宅街を分断し、練馬総合運動場~早宮~春日町~笹目通りへとつながる、「補助172号線」。
現在、東の豊島区側は用地買収が進み、西側は春日町まで事業終了。早宮の練馬総合運動場の手前まで、事業認可がおり、進んでいます。練馬総合運動場~放射35号線(現在の大門通り)までは、現在の優先整備路線に入っています(練馬総合運動場の野球場とグラウンドを分断するような形の計画)。
現在、桜台~江古田区間は、優先整備路線に入っていませんが、このまま練馬総合運動場~放射35号線が整備されれば、残すは桜台~江古田。一気に、真実味が増してしまいます。
「優先整備」に入れられてしまうと……?
計画ができたのは、昭和39年……時はオリンピック、モータリゼーションまっさかりの時代。
「50年以上前の計画……今さら動くわけない」
「江古田の商店街をつぶすなんてありえないでしょ?」
と思っていたら、大変なことになる……かもしれないのです。
実際、練馬区は、「今の都市計画道路はすべてつくる」と明言しています。また、東京都も、「必要な道路の見直しは済んでいる(=172も必要な道路である)」としています。
本当に、補助172号線の計画が、次の「優先整備路線」に入ってしまえば……。
江古田北口の商店街、ゆうゆうロードは、幅16メートル道路へと変わり、江古田のまちは変貌。閑静な桜台も分断され、開進第二小や開進第三小に通う子ども達の通学路にも影響が及びます。
だからこそ、優先整備路線に入る前に、この補助172号線を、事実上の中止にしていきたい。自分が住むまちを、よりよいかたちで、子ども達にのこすために、行動したい。
選挙中も、ずっとこの問題を訴えてきました。
実際に歩いてみた!
そのためにまず大切なのは、172号線の問題を広く知ってもらうこと。そこでまず、先の6月、「補助172号線を歩こう会」を開催しました。
その写真の一部を、ご紹介します。
↑豊島区の区境、東側からスタート。旭丘の名刹・能満寺をかすめます。
↑旭丘小の校庭と体育館の一部を切り取り……
↑日大芸術学部。172号線にかかる部分だけ、古い校舎が残っています。
↑江古田のケーキといえばここ! アンデルセンも、道路計画の真上に(アンデルセンがなくなったら、どこで子どもの誕生日のケーキを買えばいいのでしょうか!?)
↑江古田北口駅前。錦華学院や江古田ハイツは残り、坪井産婦人科のあたりが計画にかかります。
↑「ねりまの名木」に指定されている浅間神社の大ケヤキも、伐採されることに……。
↑江古田北口~江古田市場のあたりもなくなることに。
↑ゆうゆうロードはその昔、「埼玉道」と呼ばれ、川越街道へと続く古くからの道でした。
↑昔からのまちの形に、今の江古田がある。五差路にある庚申塚が、それを物語っています。
↑環七を渡り、新桜台方面を見たところ。このあたりが、172の桜台の入り口となります。
↑桜台には現道がないので、予定地やその周辺をくねくねと歩きました。
↑このあたりの数少ない生産緑地。ここも道路計画の上。
↑桜台通りを超えて、ひたすら住宅街。閑静のまちなみが壊されることがわかってきます。
↑大門通りと172号線が交わる予定地。奥に見えるのが、練馬総合運動場です。
こんなことして、いいの?
参加した方からは、
「歩いてみて、どんなふうに壊されるかがよくわかった」
「負の部分を考えるべきと感じた」
「商店街がなくなるのがもったいない!」
「一番大事なのは、人のくらし」
「浅間神社のケヤキを削る……そんなことしていいの?」
「ケヤキには鳥がたくさん住んでいる。人だけじゃなく、自然と共存するまちが大切」
「近隣の方が、どう考えているのかが心配」
「都のやることだから仕方ないと思わず、近隣の人の意見を聞いていかないといけない」
「少し離れていると、『自分には関係ない』と思ってしまう。“自分ごと”にしていかないと」
「誰も望んでいない。無意味どころか、害!」
といったご意見をいただきました。
歩いたあとは、みんなで考えよう!
その際の写真や動画をもとに、7月22日、小竹町会館にて、「補助172号線を考える会」を開きました。
当日は、老若男女、様々な世代の方、道路計画に詳しい専門家の方にもお越しいただき、活発なご意見が飛び交いました。まとめてご紹介します。
建設費は……300億円!?
「トータルの予算はどれだけかかる?」という、若い方からの「素朴な疑問」。
練馬区の発表によれば、「平均で、1メートル900万円」。これは、15メートルの区道をベースにした実績の数字です。
その他、信号などを含め、都道であることを考えれば、
「1メートル1000万円以上」では、と専門家。
約3kmとして、推定300億円!!?
ちなみに割合は、国が55%、残りを都と区で出します。
財政難もどこ吹く風ですね……。
そもそも、この計画ができたのはなぜ?
昭和39年、1964年はオリンピックの年。この年に、都内で41本もの計画がどーん!とまとめて、閣議決定されたそうです。都に出向し、都道の計画となりました。
国の決定ですから、当然、地域の状況なんて考えません。
しかも当時は、今のようにインターネットなんてなく、「決めたから、都庁に見に来い」という知らせ方。計画を知っている人も少なかったようです。
補償と「残地」の問題
道路ができて、困ることはほかにもたくさん……。
都は、道路にかかる部分しか、買い上げません。
たとえば道路に1/3かかったら、1/3のお金しかでません。「国からお金をもらって引っ越せるんだからいい」というわけではないのです。
しかも、補助172号線は、桜台をナナメに走る計画のため「三角形△の残地(道路の計画がかかっていない部分)」がたくさん出ることになります。
この残地を、東京都は買い上げず、ミニ公園などにもしない方針とのこと。
「部分的に所有権が残っても、処分のしようがなく、困る」
「△の残地は、まちの密度を薄める」
という心配の声も。
「都は無責任ではないか」というのも、ごもっともな意見です。
そもそも、必要のない道路
交通量は確実に減っていて、新たな道路が必要な時代ではなくなっています。2050年には人口が9500万人となり、生産人口も激減。物流が変わり、交通も変わります。
そして今あるインフラの整備だけでも、500兆円!!かかるとされています。
172はあくまで環状線を結ぶ、ただの通過道路。現在工事中の放射36号線が完成すれば、池袋から川越街道へ向かうルートができあがり、ますます172の必要性は低くなります。
頭を冷やせば、必要なのは別にあることがわかるはずです。
区議会でも、「なくていい」という反応
区議会の反応はというと、話題に出すのは与党でもほんの一部。
ほとんどが「なくていい」「課題があるよね」という程度の認識です。積極的に進めようという機運はありません。
それでも、都が強引に、話を動かすケースは現実にあります。
大泉方面の補助156号線も、都によって突然動き出しました。やっぱり油断は禁物!なのです。
なぜ中止にならないの?…「無理」を通す理屈
最近は、交通量だけでは根拠が薄いので、道路に「防災」といった付加価値をつけるようになりました。
何より、行政は、いくらでも時間をかけます。
環八のときは、ある神社がどくまで「30年待った」という例も。「どくまでずっと待つ」……それが行政のやり方です。
もちろん担当者は数年で変わります。先輩のやり方を否定しない、自分の代では動かさない、それを続けることで、何十年も道路計画が残り続けるという構造があるのです。
……おかしいと、思いますよね?
このおかしな構造自体も、変えていかなくてはいけないのだと思います。
放射35号線(タテ3)との関係
開進第一小学校から早宮、石神井川を越えて大門通り~高架下~豊玉を抜けて環七へと至る、放射35号線延伸部分(通称タテ3)。現在、タテ3が「優先整備路線」に入っており、反対運動をしている地域の方がいます。
このタテ3ができるかどうかが、172にも大きくかかわってきます。
タテ3ができなければ、172の意義が問われるからです。
つまり、タテ3に反対することが、172を作らせないことにつながるのです。
実際、桜台の住民の方は、「172も、住民にとって必要な道路ではない」と言います。
一方で、「このままだと、次の第五次優先整備路線に必ず入ってくるだろう」と見る意見も。
「できっこない」で何もしないでいるのは、とても心配です。
どうしたら止められるんだろう?~凍結に追い込んだ実例
- 一丸となって反対し、中止に!
昭和21年、戦後すぐの復興計画で、北区に通る予定だったある道路。自治会、お寺、与野党、そして区長が反対し、凍結……つまり、事実上の中止に追い込みました。 - 遺跡が出る
武蔵国分寺、調布で、国指定の遺跡が出て、止まった例が。
「凍結」とは言わないのですが、「検討」とし、これは事実上の中止を意味しています。
例は少ないけれど、確かに止まった実例があります。
止めるためにできること
全国的に、道路事業は廃止する時代の流れになっています。東京だけが“異常”なのです。
172号線の目的は、環七、環八までつなげることですが、現在も、池袋~環6までつながっています。
西は、練馬総合運動場の手前まで、東は環6で止める。
そう持っていくために、できることは……。
- 多くの人を巻き込み、地域が一丸となって、反対の声をあげること!
- 区政と都政が連携し、都議会を動かす
- あきらめない!
遺跡の発掘を期待してもしょうがないので(;^ω^)
まずはできること……この問題をできるだけ多くの人に知ってもらい、反対の機運を高めていくことを、続けていきたいと思います。
(参考)昭和41年都市計画決定書類(原簿)